生まれるという事
とある場所で、とある方がお腹にいた小さな命を失ってしまわれました。
明るく振舞ってはおられましたがどんなにか悲しまれたことでしょう・・・。
同じ女性として、せめて此処のダイアリーに来て下さった皆様に
心に留めておいて欲しい話をしたいと思います。
私には姉が一人います。
私と姉の間には4年という隔たりがありますが実はその間に
3人の兄妹がいました。
実際この世に出てくることはなかった兄か姉が私には居たという事になります。
私が成人して幾年か経った時に、母が打ち明けてくれたのです。
なぜ産んであげる事が出来なかったのか理由を教えてくれました。
はっきりいえば経済上の理由です。
私の母は姉をお腹に宿した時、実の母親の看病に追われていました。
当時は母は専業主婦で父親は出稼ぎに東京に行っており、誰にも助けを求めれなかったと言います。
こういうときに一番に力となってくれる実の母親が入院してどんなにか心細かったかと思いますが、当時の母は必死すぎてナニがなんだか解らないままに時間が過ぎていったと言ってました。
当時は今のように妊婦さんに対しての体重制限というのが無く、子供の為にしっかりと食事をしなければならないと言われていたそうですが、母の場合は身長156cmで体重73キロという異常な体重だったそうです。
最近では妊娠する前の体重から10キロ前後の体重の増減がベストとされていますが
母の場合は元々48キロ。つまり25キロ増え、理想とされる体重増加量の倍以上となってました。
今なら普通は帝王切開という手段で出産となるのでしょうが、当時は帝王切開をあまり進めるお医者さんがいなかったのと、あくまで自然に出産するのが美徳とされる時代でありました。
そして出産を迎えた母は、お腹の中であまりにも育ちすぎた姉を帝王切開といってしまってもいいんじゃないかというぐらいに傷口を広げ、産み落としました。
姉は4300gという体重で(今では3000前後が理想とされる)母の心臓を一度止め、自らの鎖骨を折ってこの世に誕生しました。
奇跡的にも一命をとりとめ、意識が回復した母は、ひたすら周りの皆に
「ありがとう、ありがとう」と繰り返し叫んだそうです。
母の例は少し過激ですが、子供を授かり、それを自らのお腹の中で10ヶ月耐え、
苦痛と不安を伴う出産という儀式を乗り越えて子供を世に出すのがどんなに大変な事か
少しは考えていただけたでしょうか?
それだけではありません。安定期に入るまでの何ヶ月間の不安、つわり、貧血、むくみ
責任感から来るストレスや体のだるさなど
あまりにも多くのことが女性にはやってきます。
確かに今は医療も進み、出産はたやすいように考えられがちです
ですが、私のお店には実際婦人科の先生や助産師さんなども来られ、そういうお話をすることがあるのですが
ぶっちゃけ出産は今も昔も「いのちがけ」という言葉がぴったりと当てはまるのだと言います・
これは全ての男性にも聞いて欲しい。
よく「家の母親は楽だったって言っていた。」とか
「家の母親は出産後すぐに働きに出かけてた」
とかいう人がいます。
成る程、確かに楽な人もいます。しかしそれはごく少数なのだという事をおぼえていてもらいたい。
頭でこう考えてください。
お腹にいる子供は母親から栄養をもらって細胞分裂を繰り返し、大きくなっていきます。つまり母親は子供が大きくなるにつれ自らのエネルギーを子供優先に持っていくように体が切り替わるのです。
自分で食べたものの栄養が子供の次に自らに取り込まれるのですから当然今までどおりのテンポで身体は動いてくれません。
尚且ついとも簡単にお腹から居なくなってしまう危険性のある月までの不安。
女性と言う器を借りてこの世に赤ちゃんが出てくるというメカニズムでは
赤ちゃんがなんらかの事情で居なくなってしまった時には
どうしても女性は自分で自分を責めてしまいます。
そしてそれを責める男性や周りの人も今だ多いといいます。
もちろん母親が自分勝手に体のことを考えず無理をして失うこともありますが・・・。
最初に言ったその方も大変に心を痛めておられました。
まだまだ小さい、けれども確かにお腹の中に居た存在
ご自身でもお腹に宿った時は驚きと興奮と、さぞかし幸せな気持ちになったことでしょう。
このかたの告白を聞いたとき、私にはそこで言う事はできませんでしたが
せめて此処で言いたくなった話をさせてもらいます。
私の前に経済上の理由でこの世に生まれる事が出来なかった3人の命
私が今此処に居る事が出来るのは、たまたま、そう、たまたま
経済的に子供を育てることが出来たようになったからだそうです。
皆さんの中には、なぜそんな貧しい時に子供をつくったんだ、と思われる人もいるでしょう。勿論私もそう思いました。今でなら子供でも知っている避妊という手段を
どうして取らなかったのか、と。
今でなら本当に常識として捉えられていますが、母の実家は結構厳粛で、そういうことを一切知らずに育ったそうです。
くわえて父親も中学卒業と同時に田舎から大阪に出てきて女子禁制の会社の寮で働き続け、そういうことに知識が無かったと言います。
・・・じつは母親が3人の子供を妊娠していたとは今でも父は知りません。
すべて母の独断で決め、母一人で処置を済ませ、母は一人で泣いていたそうです。
誰にも何も言わず、言えず、ただ一人で。
そして生活が安定してきた時、避妊など知らない母は私をお腹に宿しました。
それでも3人の子供を破壊させてしまったお腹できちんと私が育つのかどうかとても不安だったと言います。
しかし母の不安をよそに私は何の問題もなく産まれました。姉のときの様に大変な思いもせず、楽だったと言います。(そりゃ姉に比べたら・・・)
そして成長した私に母からその話を聞かされたとき
びっくりはしましたが、同時に不思議な感覚が沸き私はこう答えていました
「一度目も二度目も三度目も駄目だったけれど、私はこうして生まれて来たよ?」
何故かは知りません。でも今でも強く思います。
たとえ四度目の私の時に母がまた同じような選択をしていても、私はきっと産まれていた、と。
三回も締め出されたあの子供達は、私だったのだと。
だからもう後悔も何もしなくていいよ、でも産んでくれてありがとう。
母親が諦めなかったから、私はこうして此処に居ます。
もしかしたら、此処にきてくださる方の中にも、子供を産んであげれなかった経験を持つ人や、そういうお母さんを持つ子供さんが居るかもしれません。
ですがお母さんが諦めず、先へ進もうと思ってくれるのなら、必ずお腹にその時のお子さんは宿ります。
だからどうか今は身体を休めて、愛する人と共に乗り越えてください。
お腹の子供だってタイミングというものは自分では計れないのです。
今は一度外界へ避難した子供さんは今度はタイミングを計りながら貴方の傍にきちんと居ます。
その時の為に心と身体を健やかに保って欲しい。
きっとそれを望んでいるのは他ならぬその子供さんだと思うから・・・。